カテゴリー「黒澤明」の15件の記事

2015年9月28日 (月)

黒澤明:「動き」の表現者Akira Kurosawa - Composing Movement

当たり前のことだが、「映画」に為るか為らないかを決める需要な要素は「動き」である。

何をどう動かすか、カメラの動きはどうするか、むろん動かさないことも含めて、監督の決断が映画の善し悪しを決めるのだ。

その点において黒澤は紛れも無くヴァーチュオーゾである。

ネット配信で好きな時間に気軽に良き時代の日本映画を観られるように為らないかな。

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2015年5月31日 (日)

七人の侍@新文芸坐 2015.5.31

5/31 Twitterから

新文芸坐で「七人の侍」鑑賞。目出度く米寿を迎えたレジェンド野上照代さんのお話を聞けただけでも貴重な体験だった。久しぶりの文芸坐は「旧」と変わらぬ名画座感が色濃く残り懐かしかった。ビデオなんて無かった時代、名画座巡りは新しい(特に併映作品からの)刺激の宝庫だった。各名画座に感謝。

劇場スクリーンでのフィルム上映、やはり格別の味わいであった。プリントは過去のリバイバル公開時の(白黒のコントラストがはっきりした)デジタルマスター版のようで、保存状態も良好である。特に音響面の迫力はなかなかであった(ノイズ成分は多めであったが気になることはなかった)。改めて早坂文雄の音楽に脱帽である。

客層の殆どは中高年であったがかなり若い方(男女)も何人か見掛けた。「七人の侍」原作のアニメ「サムライセブン」でオリジナルに興味を持って観に来たのであろうか?初めての鑑賞が劇場上映だとしたらとても幸運なことだ。

やっぱり映画は劇場鑑賞が最高である。

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2015年4月 7日 (火)

七人の侍:早坂文雄の音楽

たかが劇伴と侮る無かれ。

己がまるで「七人の侍」という史実の目撃者だったかのような感慨が蘇り涙せざるを得ないメロディの数々。

映画音楽の現場での限られた日程、監督の無茶な注文、等々、過酷な条件下で歴史的なスコアを残す才能、せっかく戦火を生き抜いたのにもう少し長生き(享年41)すれば新たな音楽的な成果も残せたはずだ。

武満と同じようにロック的なムーヴメントにも理解を示してくれたと思うのだよ。

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2012年10月 2日 (火)

黒澤明「乱」

『乱』は苦手な黒澤作品の一つだった。

公開時に2度、その後ビデオで1度鑑賞しているが、近年Boxで購入したDVDは一度も観ていなかった。

何故苦手なのか、それは役者の質(演技)が低すぎるからである。

監督自身が『影武者』で演技指導の限界に気が付いてしまったのか、重要な場面(役者が信頼できる場合、特に井川比佐志関連)の演出を除けばあとはありがちな「泣く」「叫く」「怒る」のパターン演技なのだ。特に酷いのは重要な役を素人に演じさせている後半、悪声による棒読み、間が悪くて停滞するテンポ、ほとんど学芸会である。

一度そのあたりが気になり始めると、映画を「絵」として観る目も濁る、集中できない、おかげで「作品」としての評価が個人的にはいつまでも中途半端なままだった。

ところがだ。YouTubeでアメリカのファンがUpしたこの映像を観て目から鱗が落ちた。


音楽にデッドカンダンス(!)を選ぶUp主のセンスもさることながら、何といっても「一枚の絵」としての映像の力が強い。海外で黒澤的映像美学の集大成と言われる理由が納得できる圧倒的な凄みがある。

そうなのだ。

日本語が理解できない、つまり字幕で鑑賞している外国人の方が素直に黒澤の映像の魅力を評価しているのだよ。

後半の間延びした演出も台詞ではなく「絵」で見せることを優先した結果だと思えば・・・

で、ちょうどタイミングが良いことに、WOWOWで初のハイビジョン放送があったのである。

勿論観た。

・・・・・

「絵」に泣いた。

冒頭から美しすぎである。そして三の城攻めシーンの壮絶美、末の方登場シーン(そして最期)、楓の方斬首シーン、等々、ため息が出る。

ただ残念なのは、黒沢らしくない「妥協」が垣間見られるシーンもあることだ。特に合成シーンのお粗末さは酷すぎる。

ま、そんなあれやこれや、じっくり纏めていつか感想をアップする(かも)。

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2012年7月13日 (金)

WOWOW:黒澤明監督全30作品ハイビジョン一挙放送

8月12日(日)の「七人の侍」から順次放送される。

8月の放送予定は以下の通り。いやはや、すごいラインナップである。

812日(日)15:00~『七人の侍

813日(月)21:00~『用心棒

814日 (火)21:00~『椿三十郎

815日(水)21:00『天国と地獄

816日(木)21:00~『生きる

823日(木)21:00~『姿三四郎

830日(木)21:00~『悪い奴ほどよく眠る

WOWOW http://www.wowow.co.jp/pg_info/detail/001973/index.php

今回の放送についてはTwitterでの反響が早かった(私もTwitterでこの情報を知った)。

放送後の反応や感想も楽しみである(特に若い世代の)。

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2011年12月24日 (土)

「七人の侍」@有楽町スバル座

65周年を迎えたスバル座の記念興行オールタイム ベストムービーで「七人の侍」が上映されたので観に行ってきた。

もちろんディスクで所有はしているが、30数年ぶりにスクリーンで観る「七人の侍」はまた格別だった。

未だに新しい発見があるのが凄い。

今回の再見では、あの時代の稚児文化が結構はっきりと匂わされている事に気がついた。

勝四郎、七郎次の設定は非常に興味深い。勝四郎の本当の想い人は久蔵であったはずだし(悲恋に終わる)、勘兵衛と七郎次の関係にも主従を超えた契が見え隠れする(戦国の武士社会では一般的なことでもあった)。

映画製作前にあの時代の侍の日常を調べつくした(別の企画だったのだが)ということだが、そうであれば、必ず「稚児」やそれに基づく主従(人間)関係に関する記録も多数採取していたであろうし、それを直接ではないにせよ脚本に反映させたいと思ったはずだ。

ま、これはあくまでも私個人の感想なので、この種の見方が嫌いな方は悪しからず。

ただ、どう考えても、勝四郎が久蔵を見る時の「目」はガチであろう。演出の本気度を感じさせるのだ。

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2011年3月23日 (水)

Mount Fuji In Red (赤富士)

人間ってね、そんなに立派なものじゃないんですよ。」

人間はすべてのものをコントロールできると考えてはいけない。傲慢だ。核はコントロールすることができないんですよ。人間ってね、そんなに立派なものじゃないんですよ。

黒澤明監督、ガルシア・マルケス(コロンビアの小説家。1982年度のノーベル文学賞を受賞)との対談から

1980年作品から赤富士

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2008年6月17日 (火)

こんな映画を観てきた 15      わが青春に悔いなし

わが青春に悔いなし(46年)黒澤明NHK BS2 5/10Poster20no20regrets20youth20_post_2

数ある黒澤作品、さすがに全部無条件に好きなわけではない。中には苦手なタイトルもある。時代性(政治、社会、思想等)に関する余計な知識や理解を求められ、それによって評価の基準を上げたり下げたり補正する必要がある作品だ。社会的政治的フィルターは大衆芸術である映画の評価において避けられない要素ではあるが、フィルターが多すぎたりその偏光度が強すぎたりすると作品の本質を見誤る恐れがある。それが思想性に関する物なら尚更だ。

戦中や終戦直後、映画に体制や権力側に都合の良い思想性を強く求められた時代に制作された黒澤作品はまさにそれで、評価が難しいのだ。まだ普遍的な娯楽性を前面に出した『姿三四郎』シリーズや『虎の尾を踏む男達』は単純に面白さの理由を考えれば良いだけ楽なのだが、問題は他の作品だ。前に取り上げた『一番美しく』と今回の『我が青春に悔いなし』の事だ。

なんと言っても原節子に尽きますImg2967_5  

当時の困難な状況下で作らざるを得なかったとか、監督の思想性云々とか、戦時下から占領下での変節とか禊とか、戦中戦後という黒澤映画の歴史の中でも特殊な時代ということもあってか余計なエクスキューズが多すぎる。当時の時代的な状況を考慮しながら鑑賞しなくてはならない映画は歴史的価値はあっても単なる遺物にすぎない。より映画を楽しむために解説や資料などテキストの存在は否定しないが、作品自体が「黒澤監督の歴史」を語る為の資料になってしまっては本末転倒だ。

なんとかして後年の黒澤らしさを探し出そうと撮影や演出、編集など技術論に逃げ場を求め「ああ、やはり黒澤は素晴らしい」と言うのは可能だが、本当に「話」として面白かったのか、が問題なのだ。

あ、あれ?面白いな・・・

相変わらず大胆な映画的手法を取り入れストーリーよりも画面で魅せる黒澤節は炸裂しているが、肝心の「話」が借り物のウソ臭さを感じさせる。中流社会(=知識人)を舞台にした登場人物たちの造形が類型的すぎるのだ。「脚本家」でもある黒澤のフラストレーションがさぞ溜まったであろうことは想像に難くない。おまけにある種の居直りとしか思えない後半は観る者があっと驚く超展開、知識人は野に下れってか(当時どの方面から圧力がかかったか良く分かる)。主人公の行動は自分勝手で直情型、しかも行動力は超人的、ありえない…はずなのだが、原節子が凄いのだ。ブルジョワ我儘お嬢様から泥まみれの農村労働者まで、彼女の演技が映画的リアリティ(ホントのようなウソ)をこの作品に与えているのだ。特にど根性ぶりを身体中で表現する農村シーンでの彼女は素晴らしい。大柄で日本人離れした風貌だが意外と大地に立つ姿が似合うのだ。そう原節子という天性の映画女優がこの映画を時代を超えて面白い作品にしていると言える。Hara_setsuko

近年、小津映画によって作られた原節子のイメージが一般的になってしまったが、実はいろいろな引き出しのある、しかも何を演じても「原節子」としての魅力は失うことがない「大女優」なのだ、そうでなければ巨匠と言われる監督たちがあれだけ起用してはいないはずだ。個人的には黒澤作品『白痴』の那須妙子役の印象が強い。放映は7月だが楽しみだ。

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2008年6月 7日 (土)

こんな映画を観てきた 14       虎の尾を踏む男達

虎の尾を踏む男達(45年)黒澤明NHK BS2 5/9Bf8202716ddd75ed00df7969175d2c7c_2

無い無い尽くしの終戦直前に企画された黒澤4作目。フィルムの確保が難しくあまり尺の長い作品は作れない、ということで(当時の)日本人なら誰でも知っている歌舞伎の演目『勧進帳』なら話の前後をばっさり省略しても問題ないし、なんと言っても「山場」だけで映画が撮れる。しかも主従の絆を描いているので軍部の検閲も問題がなかろう(逆に戦後GHQの検閲に引っかかってしまうのは皮肉だが)。

と、苦肉の策で制作されたと思われる『虎の尾を踏む男達』だが、黒澤が非凡なのはこの古典の世界に榎本健一(エノケン)演じる強力を登場させたことだ。

歌舞伎の舞台そのままに再現しても結果が分かっている物語であるだけに意外性がなく映画的面白みに欠ける。かと言って、極端な改変は物語の魅力を貶める。そこで考え出されたのが、当時の日本の大衆意識を象徴する第三者「強力」の投入だ。

強力の存在は物語の大筋に何の影響も与えない。彼がいなくても義経主従は無事に安宅の関を通り抜けたであろうし、富樫は男を上げ、弁慶は舞を舞ったであろう。しかし、強力の第三者的視線があるからこそ、観客はより身近にそれぞれのエピソードを楽しむことが出来る。そうあたかも観客自身がその場に居合わせているように、豪放磊落で豪傑のイメージの弁慶が見せる統率力と人間性に魅せられ、富樫の心の動きにハラハラしその決断に喝采する、梶原の使者(久松保夫が良い)の蛇のようなしつこさに辟易し、義経公の美しさに息を飲む。そこには映画的楽しさが満ちているのだ。

しかも、この強力役が当時の喜劇王といわれたエノケンであることが、堅苦しくなりそうな映画に軽妙なテンポをもたらし、笑いの要素が観客の共感をさらに強めたのだと思う。誰もが一度は真似したであろう「六法を踏む」見せ場を弁慶ではなく強力が見せたことはまさに観客一人一人の代表である榎本健一の面目躍如たる場面だろう(こけるし)。

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2008年5月27日 (火)

こんな映画を観てきた 13    一番美しく

一番美しく(44年)黒澤明NHK BS2 5/8放映250pxichiban_utsukushiku_poster

戦意高揚、国策映画、献身的労働、等々、余計な時代的フィルターが重なって若い頃から一番苦手な黒澤映画だった(DVDの黒澤全集は所有しているが、この作品だけは一度もプレイしていないぐらい)。今回放映がなかったら2度と観ることはなかったかも知れない。

そして、これは思いのほか楽しめた。

「辛いことも悲しいこともあるけれど皆で前向きに目標に向かって頑張りましょう」という題材は決してこの時代だけのものではない。スポ根(女子バレーとかね)、プロジェクト云々(企業努力とか)、どちらかというと日本人の大いに好む題材だ。最近はドラマでこそ描かれなくはなったが、ドキュメンタリー(特に民放テレビでのお涙ちょうだい系)では定番テーマだ。さすが黒澤、題材の選び方が巧い。しかもこの時代の若手女優が集団で登場、映画内容と同じように現実にも健気に頑張る姿が伝わるわけだから、時代的な背景もあるとはいえ純粋に娯楽映画として楽しむことが出来る。当時の観客もプロパガンダ的要素はあまり強く感じなかったのではないかと思うがどうなのだろう。

それに、黒澤監督はこの作品をすごく撮りたかったのではないかと思う。それは思想的な意味ではなく、軍部の後押しさえあれば金銭的にも時間的にも余裕のある映画製作が出来るという事だ。パンフォーカス撮影等効果的な照明技術の使用、役者たちに合宿までさせる徹底した役作りと入念なリハーサル、編集効果を最大に活かすためのワンシーンでの複数カットの撮影、「贅沢は敵だ」と言いつつ実は(映画的に)贅沢出来たことが後年の重厚で完成度の高い黒澤映画の基礎になったことは間違いない。

そう考えると、余裕のなかった前年のデビュー作『姿三四郎』での(苦肉の策ではあったが)実験性や冒険性がこの作品では希薄なのもうなづける。それは検閲があるからという事もあるが、自身の思う映画作りの王道的な基本を確認したかったのだろう。

それでもやはり、この「皆でガンバロー」的題材は個人的に苦手だ。

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