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2008年11月28日 (金)

椎名林檎@さいたまスーパーアリーナ 2008.11.28

23805_1 10代の頃、人は己の頭の中に湧き起こるヴィジョンに翻弄される。それは果たして才能なのか単なる妄想なのか。心身の許容量を超えて暴発する前に何とかコントロールしようと、もがく、苦しむ、のたうち回る。強い心もしくは拠り所によって抑制するか、逃避するか、代用となるものを探すか。それら表現行為の初期衝動を「才能」と信じてに創作活動に突破口を求める者も多いだろう。だが、ほとんどは「妄想」に終わってしまう。「才能」を持つ者はほんの一握りだ。

椎名林檎はそれら「一握り」の中でも突出した才能を持ち合わせていた。初期の林檎の曲のほとんどは20歳のデビュー前に書かれた曲だ。虚実織り交ぜた現代詩のような詞、安易なジャンル分けを拒む多彩な音楽性、ノイジーでロック的刺激に満ちたサウンド、そしてエキセントリックではあるが繊細な表現力も持ち合わせた唯一無比の歌声、「少女」から「女」へという10代の女性の不安定で揺れ動く時期を、「励まし」や「慰め」や「共感」ではなく、もっと彼女たち感情の深い所に共振する普遍的価値をもつ作品に昇華している。

コンサートの客層のほとんどが若い女性たちという事が象徴的だ。女子高の制服姿も多く見かけた。彼女たちの「リンゴ~!」という遠慮がちで儚げな呼びかけにも何か切実なものを感じた。大人の女性も(社会適応力は増したとはいえ)今の自分が10代の頃から地続きで存在することを今更ながら再認識するのかもしれない。

とか言っても、男の自分による勝手な解釈ではあることをお断りしておきます。でも、泣いてる女性も多かったし、ライヴに参加すると言うよりも誠実に音楽を聴こうという雰囲気が大変良かった。林檎自身も初期の曲や言葉をはっきりと届けたい曲では過剰な演出はせずストレートに歌っていたし。

逆に後期の曲や4ビートのジャンプ・ナンバーなどではオーケストラを活用し舞台演出にも凝ったエンターテインメント空間(レヴューのようだった)を作り出していて圧倒された。余計なMCを廃し(あいさつ程度で、メンバー紹介もなし)お色直しのインターミッション以外は連続で歌いっぱなし、改めてプロの凄味を感じさせるステージだった。

以下、垂れ流し。

終演後、ステージ上のモニターにスタッフ・クレジットが流れ、そこに「自作自演 椎名林檎」と出た。

そうか、今日のステージ全てはたった一人の人間の頭の中を再現したものか、10代の頃には持て余したであろうヴィジョンを実現できる存在になったのか、存在になってもこんどは外部にコントロールしなくてはいけないものが増えて大変だったろうな、それにしてもこうやってやってのけてしまうとは、プロデュース能力も半端ないな。

子供がいることはもちろん知っていたが、「母」という存在として林檎を意識した事はなかった・・・いや、直接的ではないが母性的な表現はあったかな。でも、今回のように「母親」椎名林檎をはっきりとお披露目したのは初めてではないか(もう小学生になるのか。この二世は将来楽しみだ)。母親であることが、この後彼女の音楽にさらなる変化をもたらすのか。

全ての曲はアルバムに収められたヴァージョンに近い形に再現されたていたのだが、なかでも『ギブス』から『闇に咲く雨』への流れを完璧に再現してくれたのには感動した。『正しい街』『罪と罰』『』・・・キリがないのでお終い。

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